田極姓関連情報

  • No.1 (Mori030729) 町田・田極家の旧来からの菩提寺は現小野路町の臨済宗建長寺派の萬松寺で、太平洋戦争終盤の空襲で焼けてしまいました。焼ける前のお寺さんには古来からの過去帳がきちんと保管されておったそうな・・・・。お寺としては鎌倉幕府と平家の落人との板挟みだったのか?それとも京文化をうまく取り持って、時代の先取りをしていたのか? で、その中の話(口伝)として、
       1. 元々は京都の公家で、名字は「日に奉ると書いて日奉(にったい)」と称した。
       2. 小野路の地に辿り着いてから「田極」に改姓した。
    と語り継がれています。西暦1200年前後から現在までの約800年間の記録としては、残念ながら非常に寂しい限りです。だからといって今更鬼畜米英ではありませんが、いまなお米軍機の騒音に悩まされている町田市です。なお萬松寺は昭和24年(1949年)より逐次再建され、現在に至っています。
     注1)町田の戦災031202:昭和20年5月25日夜~翌26日にかけて米軍の焼夷弾が落とされ、萬松寺・田極保宅・田極満寿雄宅その他併せて11軒が焼けた。
     注2) 上記の口伝とは、戦前の萬松寺に存在した田極家の過去帳を前にして、当時の住職が故田極鈴子氏に語った内容で、故田極鈴子氏の子息縁者に語り継がれていました。
  • No.2 (Mori030729)  引用=http://www.asahi-net.or.jp/~ab9t-ymh/tama/htm-f/onojou-3.html
    鎌倉時代の初めと終わりでここ小野路城主の小山田氏が「鎌倉街道上道」上に登場するのです。小山田太郎高家の家臣が小山田の里に高家の骨をうずめ、台という所に住み田極という性を名乗り、現在の台部落の人達はその子孫だと伝えられていることが小野路町の町案内書に記されています。
  • No.3 (Mori030806) 「田極」の読み方
    a: 引用=難読姓氏辞典(一二三書房)、名字8万よみかた辞典(日外アソシェーツ)、難読稀姓辞典(日本加除出版)
       ・田極=たぎわ、たごく
       ・日奉=くさなぎ、ひまつり(「にったい」と言う読み方は記載がない)
    b: 引用=姓氏家系大辞典(角川書店)
       ・田極=タキメ(説明その他一切なし)
    読み方はこのような状況。但しこの後、古い時代の姓氏辞典などで調べると、「たぎわ・たごく・たきめ・くさなぎ」については全く記載されていない。唯一、「ひまつり」は多く記載されている。
  • No.4 (Mori030806) 「日奉(ひまつり)」は「日祀」とも書かれ、日は天照大神を指している。大和朝廷の官名に日祀部があり、これは天照大神を祀るために設けた品部(部署)である。当時の大豪族の大友系の一族が担当していたらしい。
  • No.5 (Mori030806) 引用=姓氏家系大辞典(角川書店)
    a: 日奉姓の見つかっているところ
       ・大友一族系(大和朝廷と同意):日奉造→日奉連(造、連は官名)。佐伯日奉造、佐伯日奉連も派生。
       ・出雲一族(敏達天皇系?):他田日奉直
       ・武蔵の国:西日奉(武蔵の七党と言われる地方豪族の一派の西党。その祖先が日奉と言われている)。
       ・その他の国々:山城、越前、飛騨、筑後、豊前、肥後、大和 等々。
    b: 西日奉氏の系図
       ・天御中主命→天八下尊→別天三降命→別天八百尊→別天八十萬魂尊→天八百尊→高魂命(日奉氏祖神)
    c: 西党は日奉宗頼が武蔵の国の守となった際に、伴に下向した一族とも言われている。
  • No.6 (Mori030806) 引用=姓氏家系大辞典(角川書店)
    a:「西」の項に武蔵の西日奉氏に関してかなり大規模な説明があります。掲載は著作権に絡みそうなので、ここには載せません。自分用として事務局の頁に入れてあります。
    b: 引用=http://www.alpha-net.ne.jp/users2/kwg1840/rekisi4.html
    ここにもかなり詳しく記述されています。
  • No.7 (Mori030809) 「日奉=にったい」を探そう !! と意気込んでも、ないですね~。
    「奉」ではなくて「泰」なのかなあ。昔の坊さんが間違えたのかな??
    「日泰=にったい」になるといくつかあります。例えば①日泰寺:にったいじ 日本とタイの親善の意味、②日蓮上人歴代系譜第38代・日泰上人:にったいしょうにん、などです。ちなみに第37代に日奉(あるいは王ヘンに奉のツクリ)上人(にっぽうしょうにん)と言う方がいらっしゃいました。
    一番多いのは、「日体大=にったいだい」ですね(笑)。
  • No.8 (Mori030926) 引用=「郷土町田町の歴史」第二巻町田町教育委員会
    上記の本の巻頭に近い7頁に、「(小野路城の)城の裾に、田極氏一族の部落があり、新田氏の子孫と伝え・・・・」との記載がある。新田と日奉(若しくはニッタとニッタイ)がごっちゃになっているように思われるが、残念ながらどちらが正しいかの確証がない。

家紋〔丸に揚羽蝶〕関連情報

  • No.1 (Mori030729) 新潟って云うのは公家全盛期の京都とかなり繋がりが深く、地名でも風習でも京都式が結構残っています。我が家の母ちゃんが新潟生まれで、結婚式でびっくりしたのですが、この地方には「女紋」っていうのがあり、家紋とは別に、女性の紋付きはすべて女紋が使われます。この紋が「丸に揚羽蝶」なのです。便利ですね。女性が結婚して紋を変える必要もないし、お隣りさんから借りて着ても知らない人には判りません。たぶん昔はそこいら中でこの紋が使われていたのでしょう。あるいはこの地方に「家紋=丸に揚羽蝶」として、京文化が伝わったのかも知れません。
  • No.2 (Mori030729) 引用=http://www3.starcat.ne.jp/~iseheisi/s-ageha.htm
    アゲハ家紋の由来 -伊勢平氏Ⅳ(岡与一氏・平家アゲハ家紋の由来より)-
    平貞盛が天慶の乱を鎮圧した功により、朝廷から頂戴した鎧に「蝶」の文様があったので、この文様を平家の家紋とした。この鎧の蝶はアゲハチョウの文様の蝶であったので、これを「元紋」ミカドアゲハ(帝揚羽蝶)とし、「副紋」アゲハチョウ(揚羽蝶)を平家の家紋と定めた。他に「丸に揚羽」「陰陽揚羽」「変わり揚羽」「真向き揚羽」「対い揚羽」など。
       注) ミカドアゲハ:黒ビロ-ドの羽に翡翠の小片をちりばめた蝶で、5月中頃伊勢神宮の外苑に姿を現す。
  • No.3 (Mori030729) 引用=http://www3.starcat.ne.jp/~iseheisi/s-ageha.htm
    「平家谷通信」5巻3号に伊藤加津子氏が次のような記事を載せている。
    平家びいきの独断的解釈と思われるかもとしながらも、平家が東大寺に家紋の揚羽蝶をつけた蓮華の花と花瓶を施入したかも知れない。というのも、これは伊勢志摩・福寿寺に伝わる平家の赤旗に書かれている揚羽蝶とよく似ているからです。東大寺の揚羽蝶の足は何故か八本、福寿寺の蝶は足は6本であるが、触覚のひげが普通は頭の上から出ているのに、胸の下から二本ついており、これがいかにも足のように見える。東大寺再建の際に間違えて復元をしてしまったのではないかと。
  • No.4 (Mori030729) 引用=http://www1.sphere.ne.jp/enshoji/kamon1088.htm
    蝶紋(ちょうもん)
    蝶を文様に用いた古い例は正倉院御物にみられる。中国では蝶と牡丹と猫の三つを組み合わせた文様を富貴、瑞祥、長寿を意味するものとして広く用いていた。蝶が家紋に使われているのは、羽を直立させてとまっている姿が、とくに人々の目をひいたからという。これを揚羽蝶と呼んでいる。『平家物語』の主役である平家一門がこの紋を愛用し、衣服、調度品の文様に広く使われた。これも蝶の華麗な姿が好まれたからであろう。この紋にもいろいろ変わった形が創作されている。二羽の揚羽が向かい合っているのが向揚羽蝶、二羽の蝶が向き合っているのを対蝶、三羽が向かい合った形を三蝶と呼ぶ。平維盛が牛車に蝶丸紋を用い、これが六波羅党の標章として、当時の人々に恐れられたことは有名である。
  • No.5 (Mori030806) 引用=日本家紋総監(角川書店)
    蝶紋は234種記載されている。丸に揚羽蝶系の紋は10数種類ある。但し、ここの「丸に揚羽蝶」の紋絵は普段見ている紋とは、特に足の辺りが少々異なる。精細なのかも知れない。その他に丸ではなく四角・八角・菱などもある。
  • No.6 (Mori030806) 引用=家紋大全(梧桐書院)
    蝶紋の種類は88種、この中にある「丸に揚羽蝶」や「石持ち地抜き揚羽蝶」辺りが、我々が良く見慣れている丸に揚羽蝶の感じがする。
  • No.7 (Mori030807) ネット上でもいくつかのサンプルを見ることが出来ます。
  •   例1(白地) 例2(黒地)
  • No.8 (Mori030925) 小野路城が小山田城の小山田氏の出城で、小山田高家が戦死した後、その家臣が高家を弔って台に住み着き、田極と名乗ったと云われている(以上は氏族移動関連情報に記載)。小山田城は平安末期に秩父平氏から出た小山田小太郎有重が居館として造営した。彼には小山田別当有重との名もあり、別当は牧場の経営や田畑の開墾が仕事であった。秩父平氏の始祖は桓武天皇であり、平家の武将であった。従って台に住み着いた家臣は、主君の小山田氏から家紋を賜って、丸に揚羽蝶を家紋とした可能性もあると思われる。

氏族出自関連情報

  • No.1 (Mori030729) 俗説によると町田市小野路町の「小野」は、「小野妹子(おののいもこ)」の「小野」で、小野妹子が生まれたとか、京都に行く途上で寄ったとか、水を飲んだとか、いろいろな逸話があります。ひょっとすると我が先祖一派は小野妹子と姻戚関係があって、それを頼ってこんな東国の果てにまで逃げ延びてきたのかもしれません。但しどちらかというと次の二説の何れかが本当のようです。
    a. 平安初期の漢学者で、小野道風の祖父に当たる「小野篁(おののたかむら)」を祀った「小野神社」に 由来している。小野篁は菅原道真の先輩にあたる学問の神ともいわれる。小野神社は平安時代の970年頃に武蔵の国司として赴任した子孫の小野孝泰によって建立されたと云われる。
    b. 相模国の国府が置かれていたところが小野の里と呼ばれていて、また武蔵国の府中にも小野ノ宮というところがあり、共に都から役人が来て治めていた。この二つの小野の地を結ぶ途中の道が通っていたので小野路と呼ばれるようになった。小野路は古代からその交通の要衝であった。
  • No.2 (Mori030729) 町田と小野路の地名等に関しての参考資料
      http://www.asahi-net.or.jp/~ab9t-ymh/annai/kama1.html
      http://www.natsuzora.com/may/town/index.html
      http://www.city.machida.tokyo.jp/shi/index.html
      http://www2.kankyo.metro.tokyo.jp/sizen/hozentiiki/syoukai/08zus.htm
      http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/onoji/onoji.html
      http://www.pompoco.or.jp/chiikitai/tama_rekishi/20020225_onoji_oyamada.htm
  • No.3 (Mori030729) 町田・田極一派の町田近隣への到着はいつなのだろう? 「丸に揚羽蝶の家紋」と「平家の公家」と云うことからついつい「壇ノ浦で破れて」と想像しがちである。でもちょっと待ってよ。平安時代にも平家の公家や、或いはその息のかかった人たちが関東に来ている。その一例が「武蔵七党」と呼ばれる地方の中小豪族である。
      引用=http://www.alpha-net.ne.jp/users2/kwg1840/rekisi4.html
    武蔵七党は、武蔵野の開墾者で鎌倉幕府の重要な構成員になった中流武士の集団である。 かれらは、平安時代後期に京都から下ってきた中流貴族の子孫だと唱えている。横山党と猪俣党が小野氏、野与党、村山党が平氏、西党が日奉(ひまつり)氏、児玉党が有道氏、丹党が丹比(多治比)氏とされる。この七党の他に私部(きさいちべ)氏から出た私市(きさいち)党もかれらと同一行動をとっている。 厳密には「武蔵八党」とよんでもよいのだろうが、私市党の勢力が大してのびなかったために、一般には「武蔵七党」とよばれる。武蔵七党には傑出した棟梁がおらず、中流武家どうしの横並びの友好関係が形成されていた。そして、七党(実際は八個の集団}の構成員すべてが同族的友好を保っていた。源頼朝が反平氏に立ったとき、かれらは早い時期にこぞって頼朝のもとに集まっている。 武蔵七党は小領主の集団である。横山党が57家、猪俣党が32家、野与党が23家に分かれている。かれらより有力な児玉党、丹党の構成員は7、80家に及ぶ。村山党、西党が20家余り、私市党はやや小規模で10数家である。つまり300余りの中流武士が武蔵七党を構成しているのである。
  • No.4 (Mori030729) ■武蔵七党姓氏一覧■

  • No.5 (Mori030729) 引用=http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02117.htm
    日奉氏:武蔵守として下向した日奉連宗頼の後裔は小川牧、由比牧の別当を兼ねて多摩川中流域に勢力を扶植して武蔵七党の一として一族は西党とも呼ばれる。また、西党は藤原氏真夏流の日野中納言資朝の玄孫資忠の後裔説も存在する。
  • No.6 (Mori030729) 参考資料=http://hon.web.infoseek.co.jp/krog/krog23.htm
  • No.7 (Mori030814) 全体の状況?
  • No.8 (Mori030925) 現在城山と云われている城趾は小野路城の跡で、小山田城を居城とする小山田小太郎有重の出城だったと云われている。有重の子孫の高家が楠木正茂・新田義貞等とともに足利尊氏と戦った際に、義貞の身代わりとなって高家は戦死してしまった。その家臣が小山田の地に高家を弔い、台(地名:字)と云うところに住み着いてこれを守り、田極と云う姓を名乗ったと云われている。現在の台部落の人たちはその子孫と云われている。
     注1:引用=我が邑小野路紀、萩生田長吉著。
     注2:小野路城031202:別名結道(ゆいどう)城とも言われる。結道=由井道で「由井への近道」との意味である。この城は小山田城の支城で、小山田重義の居城であったと伝えられている。
     注3:小山田太郎高家031202:新田義貞の侍大将。義貞の身代わりとなって討ち死。
  • No.9 (Mori030926)
    <第一期小山田家>1156年頃~1336年頃
     桓武天皇 →(曾孫)高望王:889年平姓を賜る
         →(子)平良文=村岡五郎:鎮守府将軍として相模国高座郡村岡郷に赴任。勢力は関東一円。
         →(孫)将恒=中村太郎:武蔵権守として武蔵国秩父郡中村郷に赴任。
         →(子)武基:秩父別当
         →(孫)重綱:秩父姓を称す。武蔵国留守所総検校。
         →(子)重弘=秩父太郎太夫
         →(子)有重:武蔵国多摩郡小山田別当(1156年)
         →壇ノ浦の合戦の頃から源頼朝に帰属し、源氏方となり、鎌倉幕府の興隆とともに力を付ける。
         →後年、1336年小山田高家戦死。
    <第二期小山田家>1387年頃~1477年頃
      小山田の地は上杉氏の守護領下に編入され、上杉氏の庶流の小山田氏が支配した。
    <第三期小山田家>第二期以降
      国都留郡を本拠とする郡内小山田氏が台頭する。
  • No,10 (Mori20230105) 雑件
    ◉桓武平氏の子孫は今でも続く。平家が滅びた後の平氏の歴史。
     https://ka-ju.co.jp/column/kanmuheishi
    かなり詳しい。平家とは「伊勢平氏」の平清盛一家を表す。~滅亡。
    坂東8平氏8:熊谷・北条氏、岩城・大椽氏、土肥氏、秩父氏、千葉氏、鎌倉氏。
    三浦・大庭・梶原・土肥・相馬・千葉・上総・大掾・岩城・畠山・秩父氏の他、武蔵七党のうちにも数えられる村山党・野与党、さらに越後の城氏、尾張の長田氏等も有力でした。

    ◉1.平家=平清盛一門(家族)のこと
     2.平氏=桓武天皇から平姓を賜った家系
    上杉謙信を出した長尾氏、戦国武将の相馬氏をはじめとして、あの織田信長(織田氏)や北条氏康(後北条氏)も平氏を称していたのです。
    「坂東八平氏(ばんどうはちへいし)」とは、東国に勢力を誇っていた平良文を祖とする8氏のことをいい、千葉・上総・三浦・土肥・秩父・大庭・梶原・長尾の8氏を指すと言われています。この8氏以外にも平氏はこの他に常陸(茨城県)に大掾氏、陸奥(東北)に岩城氏、越後(新潟県)に城氏などが生まれ、それぞれ武士団を形成していました。
    鎌倉幕府の有力御家人の中にも三浦氏、和田氏、千葉氏、梶原氏など、多くの坂東平氏が含まれていました。振り返ってみれば、伊豆国の流人だった源頼朝を支えていたのは、北条氏を始めとする坂東平氏だったのですから、平家を打倒し鎌倉幕府を樹立したあと、高い役職・立場が与えられるのも納得です。

    ◉日奉氏の支族 https://adeac.jp/akishima-arch/text-list/d400030/ht060140
    一族には西・長沼・上田・小川・稲毛・平山・川口・由木・西宮・駄所・由井・中野・田村・立河・狛江・信乃・清恒・田口・二宮・平目の諸家がある。これらの一族はその本拠の地名をもって名字としたものが多く、今日でも長沼・小川・稲毛・平山・川口・由木・由井・中野・立川・狛江・二宮の諸氏が本拠としたところの地名が残されている。

    ◉新撰姓氏録 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%92%B0%E5%A7%93%E6%B0%8F%E9%8C%B2
    本書には、全部で1182氏姓が記録され、その出自により「皇別」・「神別」・「諸蕃」に3分類される。
    「神別」のなかに「日奉連」の名がある。「神別」の姓氏とは、神武天皇以前の神代に別れ、あるいは生じた氏族のことで、404氏が挙げられている。神別姓氏は、さらに、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が天孫降臨した際に付き随った神々の子孫を「天神」とし、瓊瓊杵尊から3代の間に分かれた子孫を「天孫」とし、天孫降臨以前から土着していた神々の子孫を「地祇」として3分類している。

    ◉小川氏 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/sat_ogawa.html
    日奉宗頼の系図がある。祖宗頼を藤原道隆の孫としているのは明らかな付会であろう。

    ◉平山氏 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/m_hirayama.html
    武蔵七党の先祖の多くは、京都から下向した人物を祖としているが、在地豪族であったみずからの家系を貴種に結びつけたものであろう。土渕庄を本拠とした西党=日奉氏は、 由井の牧、小川の牧を所有し、相模の橘樹郡、都築郡にまで勢力を拡大していった。

    ◉武蔵七党~西党の党祖 https://ja.wikipedia.org/wiki/日奉宗頼
      日奉宗頼(ひまつり の むねより)

    ◉西党日奉氏 https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/1322405100/1322405100100010/ht050080

    ◉武蔵七党 https://ja.unionpedia.org/i/日奉宗頼
    武蔵七党(むさししちとう)は、平安時代後期から鎌倉時代・室町時代にかけて、武蔵国を中心として下野、上野、相模といった近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた同族的武士団の総称である。

    ◉坂東八平氏と武蔵七党の違い https://ja.unionpedia.org/c/坂東八平氏/vs/武蔵七党
    坂東八平氏(ばんどうはちへいし)は、平安時代中期に坂東(関東地方)に下向して武家となった桓武平氏流の平良文を祖とする諸氏。八つの氏族に大別されていたため、「八平氏」と呼ばれ、武蔵国周辺で有力武士団を率いた代表格の家門である。. 武蔵七党(むさししちとう)は、平安時代後期から鎌倉時代・室町時代にかけて、武蔵国を中心として下野、上野、相模といった近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた同族的武士団の総称である。

    ◉武蔵七党 https://adeac.jp/lib-city-tama/text-list/d100010/ht041260
    西党は、大化前代の伴造(とものみやつこ)系の氏族である日奉(ひまつり)氏の子孫を称する。日奉宗頼(むねより)が武蔵守となった後、その子孫が多磨郡の由比(ゆい)・小川牧を管理し、在庁官人も輩出した。国府の西の多摩川沿岸を本拠地とし、多摩川流域から橘樹(たちばな)・都筑郡にかけて勢力を伸ばした。

    ◉武蔵七党 https://adeac.jp/akishima-arch/text-list/d400030/ht050520
      図面あり

    ◉横山党 武蔵七党の最大勢力 https://senjp.com/yokoyama/
    実際、町田市小野路町にある小野神社は小野篁を祀った神社で、972年頃に武蔵の国司として赴任した小野孝泰による建立とされます。小野路も小野氏の勢力下だったことがわかります。

その他雑学情報

  • No.1 (Mori030925) 町田に(小野路に)由緒のある百人一首の歌人が二人いる。
    一人目は小野神社に祀られている小野篁である。百人一首の60番目の首名三位篁としている。歌は『和田の原八十島かけてこぎ出ぬと人には告げよ天のつり舟』。二人目は小野小町である。小野小町が悪病にかかった際に、城山の裏手にある小町井戸の水が効くと聞き、ここに籠もって千日間治療したと云われている。百人一首の76番目の歌で、『花の色は移りにけりな徒らに我が身世にふるながめせしまに』。
  • No.2 (Mori030925) 古道は、大きくは鎌倉街道と大山道の2本がある。但し枝道もあるので少々複雑になっているようである。大山道の起こりは徳川家康が久能山に埋葬され、その後日光に分骨埋葬される際の通り道として整備された。本行列は東海道を進み、本骨は裏街道の大山道を通った。その後、整備された大山道は大山詣で(大山導師と云われた)で賑わい、小野路の宿の旅籠は非常に繁盛した。小田急線の開通(昭和2年-1927年-4月1日)によって大山参詣の道は小田急線に奪われ、旅籠は廃れてしまった。大山道を細かく見ると矢倉沢往還(箱根芦ノ湖の北側の矢倉沢を通る)・御尊櫃御成道(家康の遺骨を入れた柩が通った)・小田原道・大山道の4道に分かれるが、多摩丘陵の一大宿場町としてこの近辺ではほぼ一つの道路になっている。
    <鎌倉街道>
    (群馬・埼玉方面)→府中→関戸→乞田(コッタ)→小野路/宿→小野神社→七国山→本町田/今井谷戸→井出の沢→(ここから分かれて 恩田川コース)→南大谷→高ヶ坂→成瀬→小川→鶴間/大ヶ谷戸→瀬谷→(由比ヶ浜方面)
    また、井出の沢→(境川コース:古くは田倉川と云った)→原町田→金森→町谷→鶴間/大ヶ谷戸
     注:小野路の「宿」は、街道沿いの宿場の意味である。井出の沢の近くにも小字宿があったらしい。
    <大山道>
    (埼玉方面)→府中→関戸→乞田(コッタ)→小野路/宿→小野神社→木曽→大沼→磯部→猿ヶ島→厚木→伊勢原→大山
     注:この道は奥州古道とも、また古東海道とも云われた。
    上記以外にも、細かな枝道が数多くあったらしい。
    注)鉄道の開通031202:横浜線=明治41年9月23日、小田急線=昭和2(1927)年4月1日。小野路の宿は大山詣での宿場として近年まで賑わっていたが、鉄道の開通によってその意義を失い、以降急速に衰退していった。
  • No.3 (Mori030926) 忠生村の名前の由来:明治23年町村制が試行され、木曽(矢部を含む)・根岸・上小山田(常磐を含む)・下小山田・図師・山崎が合併してひとつの村になることが決まった。村の名称は「早苗」派と「忠生」派が争った。前者は主な産物であった稲の苗の意味、後者は「小山田高家と云う忠臣が生まれた地である。これからも忠義の者が生まれることを祈って」との意味で、結局後者に決まった。
  • No.4 (Mori030926)  <町村合併の歴史>

  • No.5 (Mori030926) なぜ神奈川県から東京府に移管されたか?
    a. 明治18年ごろ西多摩郡長淵村(青梅)でコレラが発生し、対応が悪かったため、東京の上水道資源である多摩川が汚染された。多摩川の流域の約7割は西多摩・北多摩を流れており、多摩川の管理を東京で行うために東京移管が上程された。
    b. 衆議院で強行採決され、決定した。当時の政府は改進党で、最大野党は自由党であった。改進党は、三多摩地区選出の神奈川県議会議員(10人程度?)が自由党であったため、この議員を改進党の優位な東京府に移管した方が、政策的に有利と判断し、強行したと云われている。そのために西多摩・北多摩だけでなく、南多摩も巻き添えで東京府に移管された。
  • No.10 (齋藤031125) 齋藤孝男様から戴いた情報です。全文転載します。
       齋藤孝男「日本の苗字七千傑」http://www.myouji7000.com/
    ネット田極家 事務局 御中
    はじめまして。
    貴Webサイトに当サイト苗字関連リンク「苗字」からリンクを張りましたので宜しくお願いします。
    また次回増補時に田極姓を追加掲載致します。
    貴家の出自は小野姓横山党ではないかと推定します。
    理由としては、
     1. 発祥地と思われる武蔵国多摩郡小野路邑に小野神社が存在すること。
     2. 武蔵国多摩郡から相模国東部にかけての横山党蟠踞地には小野神社がある。
     3. 武蔵守に任じられる以前の小野利春は秩父牧の牧司として宇多院に仕えている。
     4. 小山田有重の父は秩父重弘、母は横山隆兼の娘で、同母兄に畠山重能が居り、
        秩父氏族と横山党との結び付きは強い。
    貴Webサイトの調査研究充実と益々のご発展をお祈りします。
  • No.11 (Mori20230105) 苗字のルーツは日本の歴史
      http://asagiri8210.blog61.fc2.com/blog-entry-93.html
    横山党系図によれば諸興の子小野孝泰(隆泰、隆康とも)は武蔵国司として天禄3年(972)に赴任した。現在の東京都町田市小野路町を領し、七代前の先祖である小野篁を祀って小野神社を建立した。小野路の由来も小野神社から来ているという。